BBQ&Coの「美学」?
BBQ&Co代表の成田です。
僕は、個人の記憶を留めておく必要性や、公私が曖昧に交わる「コモン」の重要性や、未規定や計算外が引き起こす美についてなど、BBQとは一見して直接関係がない概念的なこととBBQを関連付けようとしています。
僕はBBQ&Coがリリースする事業を、社会を良くするための因子にできないだろうかと考えています。
そんな考えの元、BBQ場の運営や、イベントの企画、BBQメニューやプロダクトの開発は、BBQのスキルやアイデアが豊富なスタッフたちが精力的に動かしてくれています。
僕が語ることは一見BBQとは距離があることのように感じる方もいるかもしれませんが、BBQ&Coの事業を展開している僕たちに共通する、いわばある種のパーパスとして伝わっていけばいいと思っています。
今日もそんな話をしようと思います。
合理性だけを追求しない。
記憶の交換、ハレとケ、パブリックとプライベートとを明確に線引きをしないコモンスペースとしての公園づくりなど、僕が大事にしているものに共通しているのは「合理性のみを追求しない」ことです。
BBQは、合理性の外にある世界を含んだ行為だと思うからです。
僕たちにとって、BBQとは単に「肉を焼いて食べる」ことではありません。
家族や仲間、あるいは初対面の人と一緒に火を囲み、自分のやり方を主張して相手のやり方も尊重し、また互いのアイデアを交換し、肉や食材を焼き、焼き上がるまでの時間も楽しみ、「おいしい」や「楽しい」を共有する。その流れの中には、計算外の出来事が起こる余地が十分にあります。
でも、もしBBQが一元的なルールに縛られていたり、制限時間があまりにタイトだったり、「鍋奉行」のような役割分担がガチガチに決められていたら、どうでしょう?
最短距離で肉は焼けるかもしれません。
マニュアルやルールがあると無駄や脱線が起こりにくくなります。偶発性を限りなく排除していけば、毎回均一して「肉を焼く」予定調和の体験を繰り返せるようになります。
でも僕は、それはBBQだとは思いません。
必然が目の前で展開され続ける人生の先にいったい何があるだろうと思うのです。
合理性だけでは説明できないもののために。
現代は、ビジネスでも一般社会でも「合理的かどうか・説明可能かどうか」で物事を判断することが多くあります。大量生産をするためには効率よく工場を稼働させることが大事ですし、書くにも送り届けるにも時間がかかる直筆の手紙はメールやSNSに置き換わっています。属人的ではなく人の入れ替えが可能な組織づくりは、まさに合理性の塊です。
また、長く続くコロナ禍で人は移動制限を受けてきました。「身を守りたいなら家にいればいい」という判断は実に合理的です。
でも、その一方でコロナ前は、今言われているような感染リスクは認識されていませんでしたが、すでに、車や飛行機などでの移動は一定の命の危険を伴うものでした。
では、どうして人は「旅に出たい」と思い、危険を顧みずにでかけていくのでしょう。旅人や宇宙飛行士はその最たるものです。
人類はいつも合理的な判断とは別に、「もっと遠くに行きたい」「もっと速く移動したい」というチャレンジを重ねてきました。この先に何があるかを見たいという欲求に従うことは、合理的な物差しでは測れない「尊厳のある生」の実践だと思うのです。
ZAZAZAがあえて選んだ選択肢。
徹底的に合理を追求した先の周縁には、居場所的な美しさがあります。
「みんなは左だと言うけど、最後の判断の局面では自分の経験や感覚を信じて右に行く」という価値基準貫徹の中に、置き換え不可能な美が生まれると、僕たちは考えています。
例えば、大蔵海岸ZAZAZA には地面にレンガを敷き詰めたエリアがあります。
実はわざわざ古レンガを選んで使っています。古レンガの方がコストも高いですし、メンテナンスの手間もかかります。レンガという素材だけで選ぶなら新品にした方が合理的です。
でも、どうしても古レンガの方が美しいんです。
その理由で、ZAZAZAでは古レンガをわざわざ使っています。
単品で比べてみると、新品の方がピカピカで縁のラインもきれいですが、地面に敷き詰めてみると古レンガの美しさを圧倒的に感じられます。時を経て古くなったレンガには、新品のレンガには敵わない言いようのない美しさが宿っているんです。
美しさというのは説明できないものです。その説明できないものを、僕はBBQという事業を通して誰かに伝え、気づいてもらいたいと思っているのかもしれません。
偶発的な美を大事にしたい。
また、ZAZAZAでは、配置にも一見「どうしてわざわざ?」と思われる仕掛けをしています。
ZAZAZAは敷地の海側にルーフトップ付き三層のテラスが建ち、山側に背の低いテントエリアがあります。ときどき「建物とテントの配置が逆では?」と言われることもありますし、実際に設計初期には逆で考えていたのですが、結果的に僕は今の配置にしてよかったと感じています。
ZAZAZAに実際に来ていただくとわかっていただけるのですが、この配置のおかげで景色に奥行きが感じられるようになっています。
自分の前にテーブルと椅子とグリルがあって、料理があって、仲間がいて、その向こうにZAZAZAのテラスが建っている。3階建てとはいえシースルーな建物なので、ZAZAZAの向こうに砂浜と海を望めます。海には明石海峡大橋が架かり、その先には淡路島があり、空があって雲がある。つまり視界が一枚絵として平坦にあるのではなく、世界が幾層にも重なっていることを自然と実感できる仕掛けになっています。
自分と空との距離は地球のどこに立っていてもあまり変わらないはずです。でも、その奥行きは人の感じ方次第で変わります。人間は、頭上を遮るものがない草原では空の高さを実感できないのに、天井が高い部屋では高さを感じるといった、区切りを設けることで空間を把握しやすくなる習性があります。
ZAZAZAは机上で考えた範囲では合理的な配置ではないかもしれないですが、体験質においては合理的。景色の層を重ねることによって新たな美しさを生み出しているのではないかと自負しています。
(海からの風を遮ってくれるという副次的な機能もありますしね!)
と、ここまでお話ししてきて気づいたのですが、僕は「なぜ美しいか」や「どうして楽しいか」という形のない感覚を、事業を通じて掘り出すことを楽しんでいるのかもしれません。
表現できない感覚や言いようのない美を、説明できないものとして放っておくのではなくて、どう表現したら伝わり共感してもらえるだろうと、BBQを通じて挑んでいるように思います。